| 花とサトウキビとサンゴの島 |
| 離島物産品販売コーナー |
| 徳之島 サトウキビの収穫を終えた徳之島 羽田空港から鹿児島経由で徳之島空港へ入る。前日は久しぶりの大雨であったそうだがこの日は晴天で、かなり蒸し暑い日であった。徳之島は奄美群島で二番目に大きな島で、面積248Ku、周囲84Km、人口約三万五千、徳之島町、伊仙町、天城町の三つの町からなっているが、それぞれの町には特有の方言があるという。鹿児島から470Km,沖縄から130Kmの距離となるので、天気予報も沖縄の方を見たほうが正確となる。年間平均気温は21℃と、一番寒い二月でも10℃を下がることはない。夏場は37〜38℃とかなりの高温になるが湿度が低いのでカラッとしているという。四月後半のこの時期、二月から三月にかけてのジャガイモの収穫期を終え、サトウキビも四月十三日に収穫を終えたという。 |
ハブ撲滅運動 最初に行ったところは島の北東端に突き出した金見崎で、ソテツが斜めに生い茂り頭上で組み合わさり、数百メートルに及ぶトンネルを成している。もともとは畑の境界線として植えたものであるが今は防風林として役に立っているという。鬱蒼としたソテツトンネルを歩いていると、どうしてもこの辺りにハブがいるのでないかという気にさせられる。奄美群島の中で沖永良部島、喜界島、与論島にはハブはいないが奄美大島と徳之島にはいる。奄美地方は暫くすると梅雨に入るがその頃になるとハブが出てくる。今でもサトウキビ畑や山の中で咬まれる人がいる。とぐろを巻きながら獲物を待ちうけ、熱や赤外線を感じると自分の長さぐらいの距離を飛んでくる。咬まれるとぶん殴られたような状態になるという。毒性はマムシの六十倍もあるが、今は血清が各所に保管されているので命を落とす人は少なくなった。が、しかし処置が遅れるとまだまだ怖い。また血清を打っても筋肉の腐敗症状の出ることもある。現在、鹿児島県の方でハブ撲滅運動を進めており、大きくても小さくても役所で一匹五千円で買ってくれる。これを専門にやっている人になると年間300匹ほど捕獲するそうだ。島内ではハブ獲り棒を二千円で売っているが、一匹とれば元を取れる。奄美大島でもタクシーの運転手はその日の水揚げが少ないとトランクからハブ獲り棒を出して山の中に入る人がいると聞いた。ハブの天敵は人間か?。 徳之島の観光地では時々「花は見るだけにしましょう。ハブに気をつけてね!」という看板を見かけるが、やはり結構出るのであろうか。 閑話休題。 ソテツトンネルを抜けると岬一帯の浜の見られる展望台がある。この辺りの浜は天然記念物のオオヤドカリの産卵地として有名で、狼男ではないが六月二十日頃の梅雨明けから七月上旬にかけての満月の日になるとオオヤドカリが大群を成してアダンの木の下や岩陰から浜辺を目指して出てくる。白い砂浜を埋め尽くしたオオヤドカリは交尾して、波打ち際に産卵する。島の人々はゴザを敷き飲食しながらこれを見学するという。 |
| 留学制度を実施している手々の小中学校 離島の子供はほとんどが高校を卒業すると島を出る。徳之島も同じで、小学校3校、中学12校、高校3校(私学1校を含む)あるが、大学がないことと働く場が少ないので、高校を卒業すると大抵の子が島を出ていく。卒業していった仲間が次に会うのは成人式の時で、その後はいつ再び会えるのか分からないそうだ。金見崎から4Kmほど行った手々という村にある小中学校は全校生で六名であったが、平成八年度より留学制度を実施したところ本土より児童・生徒が来て、今では二十人の学校になったという。このような学校の運動会は大変らしい。教員を含め一人で最低10種目は出なければならないそうだ。 |
特攻平和慰霊碑 島の北西部に花崗岩の巨石がむしろを敷いたように連なっているむしろ瀬の珍しい海岸を見て、海岸線に沿い南に向かうと、徳之島空港に近い天城町の浅間に特攻平和慰霊碑が建っている。南西諸島は至る所に太平洋戦争の傷跡が残されているが、ここ浅間にも痛ましい歴史が残されている。鹿児島の知覧を飛び立った特攻隊は、南の戦線への飛行を続けるのに燃料が足りなくなるため、浅間で燃料を補給し、若き兵士たちは最後の別れを惜しむかのように上空を旋回し、南方へ向かって行ったという。滑走路として使用されていた陸軍飛行場は現在、平和道りと呼ばれている。近くの加計呂麻島は海軍特別攻撃隊第十八震洋隊の基地が設営されていたところで、作家島尾敏雄がここの隊長として赴任し、後にここでの極限状況を小説にしたが、この体験が島尾文学の原点となっている。 |
| 戦艦大和慰霊塔 浅間から程近い犬田布岬には戦艦大和の慰霊塔がある。戦艦大和7万2千800トン(満載排水量)は徳之島の西北西40Km、東シナ海の海底430mのところに眠っている。昭和15年8月8日に、日本海軍最強の戦艦として呉工廠から進水したが、大和は建造時の至上命題が、米国戦艦を圧倒する戦闘力を必要最小限の排水量で実現することであった。この結果生まれたのが排水量の割に短い全長(263m)、広い艦幅で、徹底した集中防御(410mmの装甲鈑、1147の防水区画、浸水の時にバランスをとる注排水システム等)を図っているが遅い艦速になってしまった。当初30〜31ノットの速力が要求されていたが排水量を抑える必要上機関出力を低くしたので、最大速力27ノットと、列国の新造戦艦中で最低速となってしまった。このことと、既に大艦巨砲主義の時代から空母の時代に変化していたため、ほとんどの戦闘に参加することなく、また参加しても戦果を上げることなく宝の持ち腐れとなってしまった。 旗艦「大和」、軽巡洋艦「矢矧」、駆逐艦「冬月」「涼月」「磯風」「浜風」「雪風」「朝霜」「初霜」「霞」が、天一号作戦(沖縄特攻)の命を受け、徳山沖を昭和二十年四月六日に出撃した。この作戦では、大和は片道分の燃料しか積まず、艦隊だけで沖縄へ行き、到着後浅瀬に乗り上げて大和をそのまま洋上砲台にするという無謀なものであった。真珠湾攻撃で航空兵力の時代を証明して見せた日本軍であったが、過去の大艦巨砲主義による洋上決戦の考え方を捨てることが出来ず、しかも前年の昭和十九年のレイテ沖海戦においては姉妹艦「武蔵」が延べ100機の航空機により沈められているにもかかわらず、この作戦で一機の航空支援もなく出撃して行った。 一方、ミッチャー提督率いる空母群から飛び立った386機の米空軍機は戦艦大和に二時間にわたる三回の猛攻撃を行った。魚雷10本、爆弾5発が大和に命中したが、艦内弾薬庫の誘爆により沈没したと言われている。四月七日14時23分だ。第二艦隊司令長官伊藤整一中将、艦長有賀幸作大佐以下大和乗員2498名が艦と共にし、生存者は276名であった。不沈戦艦と言われた大和が沈没して四ヶ月あまり後、日本は敗戦を迎える。 高さ24mの両手を合わせた形の慰霊塔のある犬田布岬の周囲は青々とした芝が自生し、なだらかなスロープの先の断崖の前にはエメラルドグリーンの東シナ海が広がる。ここで平成五年に当時の艦隊の生存者、遺族の方、地元関係者により慰霊祭が行われた。最近は高齢化により連絡も途絶えがちになっているが、地元関係者の努力により毎年四月七日に慰霊祭が行われている。 西郷南洲謫居之跡 西郷は奄美大島に三年間島流しにされ、盟友大久保利通のお蔭で薩摩藩に召還されるが、すぐに又遠島処分を命ぜられ、文久二年(1862年)七月五日、三十六歳の時に徳之島で69日間謫居している。奄美大島での遠島処分の時、愛加那と結婚し(本妻でなく島妻としての身分になるが)、長男菊次郎と長女菊草の二児をもうけている。徳之島にいた時期は、愛加那と子供たちは西郷に会いに来ている。しかしそれも束の間の幸せで、再び沖永良部島へ島替えされてしまった。沖永良部島は重罪人の流される島で、罪人にたいする扱いは過酷で、西郷は雨風吹きさらしの狭い格子囲いの牢で座禅を組んで日々を過ごしていたという。しかし、西郷が島民に与えた影響は大きく、奄美大島、徳之島、沖永良部島のどの島でも西郷の人となりに対しては敬愛の念が持たれていたという。徳之島空港から近いところに西郷南洲上陸記念碑、平土野に西郷が謫居した地の碑がある。 徳之島の有名人 小さな島であるが有名人を挙げるとなる次のようになるのでないか。 第一に第四十六代横綱朝潮太郎。豪快な押し相撲と巨体で優勝五回、引退後は高砂部屋を継承し、前ノ山、朝潮、小錦などの強豪力士を育てている。奄美大島は昭和二十一年から米国の軍政下に置かれ、日本に復帰したのは昭和二十八年で、苦しい時代が続いていた。そんな中、朝潮の活躍は島民に希望と力を与え、まさに郷土の英雄であった。 第二は昭和五十四年六月に百十四歳で長寿世界一となった泉重千代さん。奄美の島々は長寿の島として知られているが、重千代さんが徳之島の観光産業に貢献した役割には計り知れないものがある。この島に多くの長寿の人がいることの要因の一つに黒砂糖の摂取量が挙げられている。黒砂糖には各種ミネラル、ビタミンB1、蛋白質などを多く含むアルカリ性食品で、肉食過多の酸性体質を改善し、疲れを取り、コルステロール値も下げるという。重千代さんも黒糖酒は毎晩欠かした事が無かったそうだ。住んでいた伊仙町の土壌がアルカリ質であることも影響していると言われている。 長寿日本一の頃まで世話をしてくれたのは亡くなられた奥さんの妹さんで、この妹さんが亡くなられてからは、甥の息子さんが大阪から来て世話をしていた。甥の息子さんと言っても八十過ぎの方で、重千代さんが昭和六十一年二月二十七日に百二十歳で亡くなられてから甥の息子さんも大阪に戻り、今はだれも居ない寂れた家があるだけで、その家の前には町が八百万円かけて建てた銅像が建っている。重千代さんの長寿にあやかりたいという観光客が一日200人も来ていたので、家の前までわざわざ道を舗装したが今は観光バスも入ってこない観光スポットだ。 第三は医療法人徳洲会理事長徳田虎雄。だれでもいつでも最善の医療を受けられる社会をめざして日本全国に徳洲会病院の設立を進めているが、徳田虎雄は徳之島の出身で、小さい時、自分の兄が病院で治療を受けられずに亡くしたことから医療の道を目指したという。いま奄美諸島、沖縄の島々でも徳洲会病院があるので都会と同じレベルの医療を受けられるようになっている。徳洲会の離島病院の第一号がここ徳之島から始められた。 最後は五つ子ちゃんだ。泉重千代さんが長寿世界一になった年、昭和五十四年に徳之島で誕生した男の子二人、女の子三人の五つ子ちゃんも昨年、成人式を迎えている。 |
| 洗骨の風習 東南アジアの一部から台湾・沖縄・朝鮮半島にかけて遺骸を一度埋葬もしくは風葬した後、一定の期間を経て、洗い浄め、再び埋葬もしくは納骨する洗骨葬という風習が残っている。南西諸島の多くの島で見られる。徳之島でもこの風習が今でもあり、七回忌あるいは十三回忌に、朝の五時頃、人に見られないようにしながら土葬した遺骸を掘り起こし、白骨化した遺骸の頭部を取り出して洗い、壷の中に入れる。昼頃までに終え、その後で親戚の方と弔いを行う。泉重千代さんも洗骨を行っている。 闘牛 徳之島で忘れてならないのは闘牛であろう。昔は農閑期の農民の娯楽として日本各地に行われていたが、現在は新潟、隠岐、宇和島、沖縄、八重山と徳之島に継承されているだけだ。徳之島の闘牛は一連の豊年祭りと並んで古くから馴染み親しんできた伝統行事であるが、もとは砂糖地獄といわれた薩摩藩の圧制の時代、ようやくの思いで税を完納出来た収穫の喜びを祝って行われた島民の唯一の娯楽であったといわれる。それだけに島民の闘牛にかける情熱は厚く、牛と勢子(せこ)と観客が一体となって盛り上げて行く。島内には15〜16ヶ所の練習場を兼ねた小さな闘牛場と4000人も入れる大きな闘牛場があり、年三回の優勝旗争奪全島一決定戦大会と年二十回ほどの大会が行われている。 奄美群島の観光産業を見た場合、沖縄が日本に復帰してからしだいに鹿児島と沖縄という大きな観光地の狭間の忘れられた存在になっているが、近年、奄美大島には羽田からダイレクト便が飛ぶようになったのでこれから多少期待が出来るように成りつつある。沖永良部島はハブがいない上、農業の盛んな島なのでそれほど観光に力をいれなくともやっていける。与論島もハブがいない上、沖縄から来易い立地条件がある。しかし、徳之島にはハブがいるので土地の開発や農作業への影響がまだまだある。また航空便も奄美大島と鹿児島からの便しかないので、時間にゆとりの無い観光客は行きづらい面がある。しかしそれだけに島の自然の素晴らしさを活かして観光産業を充実させ、島を活性化しようという意気込みを感じる。 |
| 沖永良部島 日本一豊かな村づくり 徳之島の亀徳港から船で沖永良部島の和泊港へ向かう。この船は鹿児島から那覇まで行くフェリーで6466トンもある大型船だ。わずか一時間五十分ほどの乗船時間だが、デッキから見る海原の色は本土では見ることの出来ないエメラルドグリーンで、いくら見ていても飽ることは無かった。こちらの海では運が良いと鯨や亀なども見ることが出来るそうだ。 沖永良部島はマドロスパイプの形をした周囲56Km,面積94Kuの隆起サンゴ礁で出きた平坦な島で、「花」の島といわれている。エラブユリ、フリージア、こちょうらん、グラジオラスなどの園芸農業が盛んで、ハイビスカス、ブーゲンビレアなどは一年中咲き乱れ、芳ばしい香りを漂わせている。人口1600人、和泊町と知名町から成り、鹿児島から536Km,沖縄から62Kmの距離にある。 サトウキビ、野菜、園芸などを基盤とした農業の盛んな島で、鹿児島県下でも四番目の農業所得をあげている。ちょうどじゃがいもの出荷時期であったが、こちらのジャガイモは「春のささやき」という鹿児島県のブランド指定になっている。サンゴの関係で土壌は赤いが、ジヤガイモやサトイモの栽培に適しているそうで、真っ白なジャガイモが取れる。 和泊港からバスで十分ほど行ったところに、校庭の中にガジュマルの巨木が傘状に茂り、「日本一のガジュマルの木」のある学校として評判の国頭(くにがみ)小学校がある。このそばに「汐汲みの像」が建っている。国頭の辺りは昔、島内でもとりわけ貧しい地域で、現在、校庭となっている場所で朝早くから家族でサンゴに海水をかけて製塩をやり、なんとか生計を立てていたという。しかし今日、国頭はサトウキビ、園芸、野菜作りなどが盛んで、沖永良部島の中でも豊かな地域となっている。農林水産省で行っている「日本一の集落」で天皇賞を平成七年に受け、平成十二年には正名地域が表彰されている。この辺りでは3000〜4000万円の年収をあげる農家が連ねているそうだ。島全体が豊かな農業で成り立っている所為か観光産業にはあまり力を入れてないように感じた。 |
| 海亀が首を出す 沖永良部空港のそばにフーチャ(潮吹き洞窟)という隆起サンゴ礁が東シナ海の荒波で侵食されてできた洞窟がある。海の荒れている時には、岩間の海水を20〜70m吹き上げるという。以前は四ヶ所のフーチャがあったが、飛沫が農作物に大被害を与えたため三ヶ所が壊され、観光用に一ヶ所のみ残されている。穏やかなコバルトブルーの海面に何か見えてのでじっと目を凝らしていたら海亀が首をもたげた。正面には徳之島が微かに見えた。 西郷南洲謫居の地 真っ白な砂浜にサンゴ礁が傘の形に侵食された奇岩が海に突き出ている海岸やキャンプ場のある笠石海浜公園を後にし、和泊町に入るとここに南洲神社があった。島津久光の怒りにふれ二度目の流罪となり、徳之島を経て文久二年((1862年)八月から元冶元年(1864年)二月までの一年七ヶ月の間この島の牢屋に入れられていた。沖永良部島は重罪人が流されてくる島であるが、ここでの西郷に対する扱いは酷いもので、体力が衰えこのままでは危ないと思った島の若者が役人にお願いして自宅に連れて帰り、体力を回復させたという。島にいる間、子供たちの教育にもあたり、西郷の遺徳を慕って明治三十五年に南洲神社が建てられた。 |
知名町で見つけた沖永良部島の特産品 最近は日本どこへ行ってもあまり代わり映えのしないお土産ばかりだが、泊まった知名町で珍しい特産品を見つけた。幾つか挙げると、まず漬物で、「豆腐の味漬け」、これは大きな豆腐の水分を抜き、清水に晒し、それをソテツ味噌に漬けこんだもので、薄く切るとチーズのように見えるがなかなかあっさりしていて酒の肴に合う。次は「ブシュカン漬け」、これはミカンを皮ごと十日間ほど熱湯に漬け、それをお醤油、黒糖酒、黒砂糖の混ぜたものに漬ける。「つのまた」、これは沖永良部島の綺麗な海の底でとれた海藻をソテツ味噌で漬けたもので、ご飯と一緒に食べると美味しい。奄美大島では鶏のささ身、錦糸卵、シイタケ、のりをご飯の上に乗せ、その上から地鶏のスープをかけて食べる鶏飯が美味しかったが、こちらの漬物もなかなかいける。お菓子では「ゆきみし」というもち米とうるち米と黒糖を蒸して出来たお菓子がある。どれも島の環境から生まれた保存食で、美味しく食やすいものだ。黒糖酒は奄美群島ではそれぞれの島で造っているが、この島ではアガリクス酒というリキュールを造っている。これはサトウキビの絞りカスを使って栽培したアガリスクというキノコを黒糖酒に漬けて造ったリキュールで、飲みやすく、女性が好みそうだ。こちらの食べ物には黒砂糖やソテツ味噌を入れたものが多くあり、長寿の秘訣もこの辺りにあるのかもしれない。 |
| 離島の中で一番住みやすい島 昇竜洞という鍾乳洞へ行く時、途中、大山の航空自衛隊第55警戒群沖永良部基地を通った。日本には、北は稚内、南は沖縄まで全国28ヶ所にレーダーサイトがあり、24時間日本の防空圏を監視していて、国籍不明機が日本の領空を侵犯する恐れのある場合、スクランブルをかける役割をしている。ここも180名の隊員が常駐している重要な基地であるが、この基地の中に一般道が通っているので自由に入ることが出来る。離島の中に自衛隊の基地があると、事故や病気などの緊急事態が発生した時、ヘリコプター等により搬送してもらえるので島の人には喜ばれているという。 沖永良部島はほとんど何でも自給自足できる島で、お金がかからないそうだ。仕事も猫の手も借りたいほど労働力を必要としているので、アルバイトの口はいつでもあるという。殺伐した事件も無く、出かける時、家に鍵をかけずとも心配はなく、島外へ出かける時も車に鍵をかけずに港に置いていく人が多いという。島のあちらこちらに百円で野菜や花を買える無人市場があるが、決して金銭をごまかされるようなことは無いと島の人は自慢している。僻地の島であるが治安が良く住みやすいので、鹿児島県から派遣された公務員や教員はこの島が気に入り、三年間の派遣予定を五年間まで延ばしてもらった人や二十年間も延ばしてもらった自衛隊員もいるそうだ。 |
昇竜洞から田皆岬 大山の山腹には、200〜300の鍾乳洞があると言われ、その中でも一番大きいのが昇竜洞で、全長3.3Kmあり、東洋一の鍾乳洞と言われている。以前からこの鍾乳洞は島の人に知られていたが、ここには竜が住み、天と往来しているとの言い伝えがあり、誰一人としてここには近づこうとしなかったが、昭和三十八年に愛媛大学の探検隊により調査が行われ、全長3.3Kmが確認された。その後600mだけがライトアップして一般公開されるようになった。なかなか見応えのある自然が創り出した巨大なオブジェだ。ここから田皆岬に行く。東シナ海に突き出すような高さ40mの迫力ある断崖絶壁が見られる台地で、周りは一面芝生に覆われているので緑と変化に富んだ岩の色と青く澄んだ海の色のアンサンブルが素晴らしい。ヤギが放し飼いにされているのでいたるところに糞が落ちている。 徳之島が男性的な島だとすれば沖永良部島は女性的なイメージを持った。どちらも年間二十回ほどの台風に直撃され、風速20mなど驚かない土地柄だが、沖永良部島にはハブがいないので安心して農作業をすることが出来、園芸農業も盛んで、平坦な島のいたる処に花々が咲き誇っている所為であろうか。非常に豊かな島であるが観光バスはレトロ調のオンボロバスで、和泊港にはまともな待合室も土産物屋も無かった。観光産業にそれほど力を入れなくともやっていける為なのか、あるいは観光客があまり来ない為なのか。しかしもう一度行ってみたい島だ。 |
| リンク(沖永良部島 わどまり) |
| 与論島 |
| 鹿児島県の最南端の島 沖永良部島の和泊港から一時間四十分ほどの乗船で与論港に着く。鹿児島県の最南端にあるリーフに囲まれた周囲24Km,面積20Kuの島。沖縄が日本に返還されるまではここが日本の最南端としてもてはやされた時期もあったように、沖縄本島までわずか28Kmしかないので、琉球文化との繋がりが強く、飲食店でも沖縄料理が食べられる。 島の一番高いところは100m足らずで、観光スポット全部見るのに4時間もあれば十分だ。島をとりまく円形のリーフ、エメラルドグリーンという表現がピッタリするような海の美しさ、白砂の砂浜、どれをとっても若い女性が喜びそうな島だと思うのだが、多くの若い女性はグアムやハワイへ行ってしまう。マリンスポーツは一年中楽しめ、オープニング・サマーフェスティバル、ダイビングフェスティバル、パナウル王国杯ゲートボール大会、ヨロンサンゴ祭り、サザンナイトフェスタ、パナウルカップ・ヨットレース、ヨロンマラソンなど各種イベントも多く、島は観光で成り立っている。ヨロンマラソンは島を一周しても24Kmなので二周している。 与論島の観光スポットは特に興味を持ったところが無かった。ここは素晴らしい海を眺めながら与論島に流れるゆったりした時間の中に自分を埋没させて寛ぐか、あるいは若者のようにマリンスポーツを楽しむのが良いのかもしれない。島の中心地は茶花で、ここで面白い信号を見た。赤・黄・緑の信号は与論島では茶花に一ヶ所あるだけで、昼間は黄色が点滅しているだけだが、夕方から夜にかけて三色が動きだし、24時には全て止まってしまう。島では信号の必要性が少ないが、子供たちが島から出て行った時のことを考え、教育の為に作動しているという。 ガジュマルの別名、絞め殺し 南の島へ行くと大抵ガジュマルの木を目にする。精霊の宿る溶樹とも、絞め殺しとも言われている。枝から枝葉が何本も垂れ下がりそれが次第に太い幹となっていく。それが傍にある別の幹に絡まるとジワジワと締付け、その幹を枯らしてしまうのでこの異名が付けられている。根も広く這っていくため、家の傍にあると土台や石垣を壊してしまうほどのパワーがあるという。 |
| 島から出られなくなる 島を出る日、曇り空であった。しかし、鹿児島は風雨波浪注意報が出されていて、鹿児島空港から旅客機(YS11)が飛び発てなかった。この旅客機が与論空港に着かない限り空の便が無いため、与論港から船で那覇まで出て、那覇空港から羽田に戻る予定にした。しかし、だんだん天候が悪くなり、船も与論港に接岸出来なくなってしまった。空の便も海の便もダメになりもう一泊するはめになる。離島の旅はこのようなケースがよくあり、離島や船中に何泊もしなけらばならなくなることもある。ホテルで沖縄米軍のベースの若い連中が教官と休暇で大勢来ていて、彼等と一緒に待機していたが途中で居なくなってしまった。米軍のヘリコプターでも迎えにきたのであろうか。不便この上なかったが面白い体験であった。 |